自己開示ではない何か

たまに記憶喪失になる、つい先日のブログの内容を覚えていない。内容というかそのときの詳細な気分をすぐに忘れてしまう、そういう別人みたいな自分の記録を読んで少しでも思い出せると得した気分になる。面白いと思う、けど内容は最悪。

 

私はいずれ超リア充になる予定だった、そうしてずっと生きてきた。今の自分の大体8割くらいが仮の姿だ、そう思って生きてきた。28まで疑わず気づかず省みずそうしてきた、そのための努力を見事に生活に反映させてきた。

それをおかしいと思わなかった、むしろおかしいのは努力しても努力しても中々リア充にならない現実のほうだと思っていた。僕と一緒にそういうキャラがいた、竹ノ内豊を本当の自分だと言い張る男がいた。こんな風になったら終わりだ…と思いながら、それが自分だとは認められなかった。しかし今日こうして自分で書いた「自分」は、そうだとしか言いようがないすさまじいメンヘラっぷりで、読んでる間中ずっと目が泳いでいる。

 

生まれた時からそうだった訳じゃない、年を経るごとにそういう思いが強くなり、一挙手一投足自分の嫌なところはすべて「これは虐待の果てに出てきた後遺症のようなもの」で「本当の自分に早くなりたい」と思うようになってどんどん自分を理想に向けて「矯正」していった。そうすると生活は散漫で達成感のない謎だらけの苦行になっていった。

私はいつでも仮の住まい仮の仕事仮の交友関係の中に生きていた。何が嫌で何ができなくて今の自分の現状はどうなのかを1ミリだって確認したくない認めたくない。ある意味自分の事を良く分かっているからそういうことが出来るんだけど、分かっているのと認めているのでは全然違う、奴隷と大統領ぐらい違う。

私が私だから発生する嫌なことは嫌な気分になるだけだから認める必要がないと思っていた、何故ならそれは害悪だから、ストレスの果てに動かなくなった足手まといの部分で、自分ではない何かだったから。

でも違った、そういうものじゃなかった。それはただの今の自分だった。

「アレができるようになったら」「こういう性格になったら」完璧な自分になったら本当の幸せが湧き上がってくると思っている幸せ待ちの状態、幸せになれない、そのままじゃ認められない「普通の性格」をもった自分だった。

 

支配的な父親に育てられなていない私がいたとして、実はある程度は今の自分に近い性格で、違いはそれを自分で受け入れられているかどうかだけだと思う。

 

ところで、今日は2時間しか寝てないから超ダークゾーンへ振れてる、自宅で一人でブログ打ってるのに感情がびりびりし過ぎて死ぬかと思った。本谷さんのあの子が考えることは変にでてくる巨乳のほうみたいな苦しみ、マジでアレだなと思って読んでた。

このスパークして辛いのが全然幻じゃなくて、感情が自分を支配していてもう世の中糞かよ状態が正常な現実としか思えなくなるとき、自分を認めないようになっていく、認めたら絶望感で死にそうに辛くなる。既に辛いのに認めたらさらに辛くなるですよ☆安心してください生きてますよ☆

それすらも認めて感じること、認めたくない自分も、自己否定する自分も、自分を責め続ける自分も、それさえも認める。超入れ子式、もにたーの中の自分。

わっしょーい☆ご飯食べよ!!